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人生朝露

人生朝露

『田舎荘子』より「猫の妙術」。

荘子です。
荘子です。

今日は作業。

『田舎荘子』佚斎樗山(いっさいちょざん)著。
『荘子』と武道を考える上で、一番分かりやすいと思われる享保年間に書かれた佚斎樗山(いっさいちょざん)の『田舎荘子』の「猫の妙術」の全文を。『田舎荘子』という書物は、『荘子』の思想を換骨奪胎して儒教や神道、仏教の観念も織り交ぜながら展開されておりまして、詳しく説明するときりがないです(笑)。

荘子 Zhuangzi。
このうち「猫の妙術」は『荘子』の逍遙遊篇の「子獨不見狸狌乎?卑身而伏、以候敖者。東西跳梁、不避高下。中於機辟、死於罔罟。今夫斄牛、其大若垂天之雲。此能為大矣、而不能執鼠。(あなたは狸や鼬を知らないのですか?彼らは低く身を伏せて、獲物の隙を狙いますが、それでいて罠や網にかかって命を落とします。斄牛という生き物は天にたなびく雲のように大きさですが、鼠を捕らえることはできません。)」というところから着想して、その後も『荘子』の言葉を、これでもかと言わんばかりに駆使して構成されています。

『田舎荘子』より「猫の妙術」 その1。
≪ 「猫の妙術」
 勝軒といふ剣術者あり。其家に大なる鼠出て、白昼にかけまはりける。亭主其間をたてきり、手飼の猫に執らしめんとす。彼鼠進て、猫のつらへ飛びかかり、喰付ければ、猫声を立て逃去りぬ。此分にては叶まじとて、それより近辺にて、逸物の名を得たる猫ども、あまたかりよせ、彼一間へ追入ければ、鼠は床のすみにすまゐ居て、猫来れば飛びかかり、喰付、其けしきすさまじく見へければ、猫どもみなしりごみして進まず。亭主腹をたて、みづから木刀を提、打殺さんと追まはしけれ共、手もとよりぬけ出て、木刀にあたらず、そこら戸障子からかみなどたたきやぶれ共、鼠は中を飛びて、其はやき事電光のうつるがごとし。ややもすれば亭主のつらへ飛かかり喰付べき勢ひあり。勝軒大あせをながし、僕を呼て云、「是より六七町わきに、無類逸物の猫有と聞く。かりて来れ。」とて、則人をつかはし、彼猫をつれよせてみるに、其形利口げにもなく、さのみはきはきとも見へず。「それ共に先づ追入て見よ。」とて、少戸をあけ、彼猫を入ければ、鼠すくみて、動かず。猫何の事もなく、のろのろとゆき、引くわへて来りけり。 其夜件の猫ども、彼家にあつまり、彼古猫を座上に請じ、何れも前に跪づき、「我々逸物の名を呼ばれ、其道に修練し、鼠とだにいはば、鼬獺なりともとりひしがむと、爪を研罷在候処に、いまだ、かかる強鼠ある事をしらず。御身何の術を以か、容易く是をしたがへ給ふ。願わくは、惜しむことなく、公の妙術を伝へ給へ。」と謹面申ける。

 古猫笑て云。「何れも若き猫達、随分達者に働き給へども、いまだ正道の手筋をきき給はざる故に、思ひの外の事にあふて、不覚をとり給ふ。しかしながら、先づ各々の修行の程をうけ給はらん。」と云。

 其中にすすどき黒猫一疋すすみ出、「我鼠をとるの家に生れ、其道に心がけ、七尺の屏風を飛び越、ちいさき穴をくぐり、猫子の時より、早わざ軽わざ至らずと云所なし。或は、眠て表裏をくれ、或は不意におこつて、桁梁を走る鼠といへども、捕損じたる事なし。然るに今日思ひの外成強鼠に出合、一生のおくれをとり、心外の至りに侍る。」

 古猫の云。「吁、汝の修する所は、所作のみ。故にいまだ、ねらう心あることをまぬかれず。古人の所作を教るは、其道筋をしらしめんため也。故に其所作、易簡にして、其中に至理を含めり。後世所作を専として、兎すれば角すると、色々の事をこしらへ、巧を極め、古人を不足とし、才覚を用ひ、はては所作くらべといふものになり、巧尽て、いかむともすることなし。小人の巧を極め、才覚を専とする者、みなかくのごとし。才は心の用なりといへども、道にもとづかず、只巧を専とする時は、偽の端となり、向の才覚却而害に成る事おほし。是を以かへりみ、よくよく工夫すべし。」

 又虎毛の大猫一疋まかり出、「我おもふに、武術は気然を貴ぶ。故に気を練る事久し。今其気豁達至剛にして、天地に充るがごとし。敵を脚下に踏み、先づ勝て然して後進む。声に随ひ、響に応じて、鼠を左右につけ、変に応ぜずといふことなし。所作を用るに心なくして、所作をのづから沸出づ。桁梁を走る鼠は、にらみおとして、是をとる。然るに彼強鼠、来るに形なく、往に迹なし。是いかなるものぞや。」

 古猫の云。「汝の修練する所は、是れ気の勢に乗じて働くもの也。我に恃むこと有て然り。善の善なるものにあらず。我やぶつて往むとすれば、敵も亦やぶつて来る。又やぶるに、やぶれざるものある時はいかん。我れ覆つて、挫がんとすれば、敵もまた覆つて来る。覆ふに、覆はれざるものある時はいかむ。豈我れのみ剛にして、敵みな弱ならんや。豁達至剛にして、天地にみつるがごとく覚ゆるものは、皆気の象なり。孟子の浩然の気に似て、実は異也。彼は明を載せて、剛健也。此は勢に乗じて、剛健なり。故に其用も亦同じからず。江河の常流と、一夜洪水の勢のごとし。且気勢に屈せざるものある時はいかん。窮鼠却て猫を噛むといふことあり。彼は、必死に迫て恃む所なし。生を忘れ、欲を忘れ、勝負を必とせず、身を全するの心なし。故に其志金鉄のごとし。かくの如き者は豈気勢を以て服すべけんや。」

 又はい毛の少年闌たる猫、しづかに進て云、「仰せの如く気は旺なりといへども、象あり。象あるものは微也といへども見つべし。我れ心を練ること久し。勢をなさず、物と争わず。相和して戻らず。彼つよむ時は、和して彼に添。我が術は帷幕を以、礫を受るがごとし。強鼠有といへども、我に敵せんとしてよるべき所なし。然るに今日の鼠、勢にも屈せず、和にも応ぜず、来往、神のごとし。我いまだかくの如きものを見ず。」

 古猫の云。「汝の和といふものは、自然の和にあらず。思て和をなすもの也。敵の鋭気を、はづれむとすれども、わづかに念にわたれば、敵其機を知る。心を容て和すれば、気濁て惰にちかし。思ひてなす時は、自然の感をふさぐ。自然の感をふさぐ時は、妙用何れの所より生ぜんや。只思ふこともなく、することもなく、感に随て動く時は、我れに象なし。象なき時は、天下我に敵すべきものなし。然りといへ共、各の修する所、悉く無用の事なりといふにはあらず。道器一貫の義なれば、所作の中に、至理を含めり。気は一身の用をなすものなり。其気豁達なる時は、物に応ずること窮りなく、和する時は、力を闘はしめず、金石にあたりても、よく折ることなし。然りといへども、わづかに念慮にいたれば、皆作意とす。道体の自然にあらず。故にむかふもの、心服せずして、我に敵するの心あり。我何の術をか用んや。無心にして、自然に応ずるのみ。然といへども、道極りなし。我がいふ所を以至極とおもふべからず。むかし、我隣郷に猫あり。終日眠り居て、気勢なし。木にて作りたる猫のごとし。人其鼠をとりたるを見ず。然共彼猫の至る所、近辺に鼠なし。所をかへても然り。我往て其故を問。彼猫答へず。四度問へども、四度答へず。答へざるにはあらず、答へる所をしらざる也。是を以知ぬ、知るものはいはず、いふものはしらざることを。彼猫は、をのれを忘れて、物を忘れて、無物に帰す。神武にして、不殺といふものなり。我また彼に及ばざる事遠し。」≫

・・・最後の方で『荘子』の故事「木鶏」が「木猫」とアレンジされて登場します。

後半部分で、猫の集会を聴いていた勝軒が剣の極意を猫に問います。
『田舎荘子』 より「猫の妙術」 その2。
≪ 勝軒夢のごとく、此言を聞て、出て古猫を揖して曰。「我剣術を修する事久し。いまだ其道を極めず。今宵各の論を聞て、吾が道の極所を得たり。願はくは猶其奥儀をしめし給へ。」

 猫云。「吾は獣なり。鼠は吾が食也。吾何ぞ人のする所をしらんや。然れ共われ窃かに聞し事あり。夫剣術は専人に勝事を務るにあらず。大変に臨て、生死を明らかにする術也。士たる者、常に此心を養ひ、其術を修せずむばあるべからず。故に先づ、生死の理に徹し、此心偏曲なく、不疑不惑、才覚思慮を用ゆる事なく、心気和平にして、物なく、潭然として、常ならば、変に応ること自在なるべし。此心わづかに物ある時は状あり。状ある時は、敵あり、我あり。相対して角ふ。かくの如きは変化の妙用自在ならず。我が心先づ死地におち入て、霊明を失ふ。何ぞ快く立て明らかに勝負を決せむ。たとひ勝たりとも、めくら勝といふものなり。剣術の本旨にはあらず。無物として、頑空をいふにはあらず。心、もと形なし。物を蓄べからず。僅に蓄ゆる時は、気も亦其所に倚る。此気僅に倚る時は、融通豁達なること能はず。向ふ所は過にして向かはざる所は不及なり。過なる時は勢溢れてとどむべからず。不及なる時は餒て用をなさず。共に変に応ずべからず。我が所謂無物といふは、不蓄不倚敵もなく我もなく、物来るに随て応じて迹なきのみ。易曰、『無思無為、寂然不動、感而遂通、於天下之故一。』此理を知て剣術を学ぶ者は道にちかし。」

 勝軒云。「何をか敵なく我なしといふ。」 

 猫云。「我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。敵といふは、もと対侍の名也。陰陽水火の類のごとし、凡そ形象あるものは、かならず対するものあり。我心に象なければ、対するものなし。対するものなき時は、角ものなし。是を敵もなく、我もなしと云。物と我と共に忘れて、潭然として無事なる時は、和して一也。敵の形をやぶるといへども、我もしらず。しらざるにはあらず。此に念なく、感のままに動くのみ。此心潭然として、無事なる時は、世界は我が世界なり。是非好悪、執滞なきの謂也。皆我が心より、苦楽得失の境界をなす。天地広しといへども、我が心より外に求むべきものなし。古人曰、「眼裏有塵三界窄心頭無事一生寛。」眼中わづかに塵沙の入時は、眼ひらく事能はず。元来ものなくして、明らかなる所へ、物を入るが故にかくのごとし。此心のたとへなり。」又曰、「千万人の敵の中に在て、此形は微塵になる共、此心は我が物なり。大敵といへども、是をいかむともすること能はず。孔子曰、「匹夫不可奪志」と。若迷ふ時は、此心却て敵の助となる。我がいふ所此に止る。只自反して、我に求むべし。師はその事を伝へ、その理を暁すのみ。其の真を得ることは我にあり。是を自得と云。以心伝心ともいふべし。教外別伝ともいふべし。教をそむくといふにはあらず。師も伝こと能はざるをいふなり。只禅学のみにあらず、聖人の心法より、芸術の末に至るまで、自得の所はみな以心伝心なり。教外別伝也。教といふは、そのをのれに有て、みづから見ること能はざる所を、指して知らしむるのみ。師より是を授るにはあらず。教ることもやすく、教を聞こともやすし。只をのれにある物を、慥に見付て、我がものにすること難し。これを見性といふ。悟とは、妄想の夢の悟たるなり。覚といふもおなじ。かわりたる事にはあらず。」(以上、佚斎樗山(いっさいちょざん)著『田舎荘子』より「猫の妙術」≫

禅仏教の用語を交えながらも、『荘子』の本旨から外れることもない。
よくできていると思います。

今日はこの辺で。


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